2015年11月1日日曜日

どうすれば伊達政宗は天下を取ることができたか

伊達政宗は遅く生まれてきた戦国時代の英傑で、あと10年早く生まれていれば天下を取ることができたとよく言われる。伊達政宗が生まれたのは1567年、織田信長が美濃から斎藤氏を追放して本格的に天下取りに動き始めた年である。翌年には早くも足利義昭を奉じて上洛して、織田政権を樹立している。奥羽の田舎に生まれた政宗がここから巻き返しを図るのは時間的に難しく、そこで「あと10年早く生まれていれば」という言説が出るようになった。

しかし、政宗があと10年早く生まれたとして、天下を取ることはできたのか。当時の奥羽は中小の大名が割拠する地域で、大きな勢力は二つしかなかった。一つは置賜の伊達家、もう一つが会津の蘆名家である。奥羽において国持ち大名に匹敵する勢力を誇るのは伊達家と蘆名家しか存在せず、室町幕府が認定した全国の大名家で奥羽から選ばれたのも、この二家だけである。実は政宗があれほど急速に勢力を伸ばすことができたのは、蘆名家の全盛期を築き上げた盛氏が男子を残さずに死亡したためであり、政宗があと早く10年早く生まれても全盛期の蘆名家と対峙しなければならず、奥羽の統一は難しい。

蘆名家は盛氏の死後、二階堂家出身の盛隆、佐竹家出身の義広と他家出身の当主が続き、求心力が衰えていった。その隙を突いて、政宗は蘆名家を滅ぼして会津を治めることに成功したのである。会津を手に入れた伊達家は奥羽において圧倒的な勢力を誇るようになり、現在の福島県中通りに割拠する中小の大名や現在の宮城県を治める大崎家と葛西家を従えるようになった。20代前半という若さで伊達家をこれほどの勢力に押し上げた政宗は織田信長以上の英傑に見える。しかし、政宗の成功はライバルである蘆名家の自滅と、他に大きな大名がいない奥羽という地理的条件によるものであり、決して政宗の才覚のみによるものではない。

とはいうものの、政宗にも天下取りの機会は十分にあった。秀吉政権は奥羽と関東の大名に対して、大名間での私闘を禁じる惣無事令を発しているが、政宗はこれを破って蘆名家を攻め滅ぼした。さらに関東の北条家とは同盟関係にあり、小田原征伐への参陣が遅れたことで秀吉政権から冷遇されることになった。結果的に蘆名家から奪った会津は秀吉政権に没収され、米沢72万石のみが安堵され、さらに葛西大崎一揆を扇動した罪で後の仙台藩につながる岩出山58万石に減封されることとなった。しかし、秀吉政権に早くから従った上杉家は惣無事令の下でも秀吉の許可を得て新発田重家を攻め滅ぼしている。つまり秀吉の天下統一に協力する大名には、それなりの勢力拡大は認めるということである。政宗も北条家との縁を切り、早くから秀吉政権に従うべきであった。秀吉政権の下で南奥羽に100万石を超える大領を有することも可能であっただろう。

中央の政権に従わずに独立して動くには最低100万石の軍事力が必要である。徳川家康も三河、遠江、駿河に加えて甲斐と信濃を獲得したからこそ、秀吉政権と渡り合うことができた。もし政宗が南奥羽に100万石を超える領土を有していたら、秀吉死後に徳川家康と渡り合っていたのは上杉景勝ではなく伊達政宗となっていただろう。石田三成のクーデターによって、上杉征伐に向かっていた家康は東西から挟撃される形となった。しかし、上杉景勝は江戸に向かわず山形に向かって、最上家の攻略を行った。上杉家が短期的な勢力拡大に走ったことで家康は命拾いして、関ヶ原の戦いで勝利することができた。

しかし、政宗が上杉景勝の立場で家康を追撃していたらどうなったか。家康は政宗に備えて江戸を離れることができなかったかもしれない。家康は石田三成がクーデターを起こした後もしばらく江戸を離れず、福島正則や黒田長政といった東軍諸将を濃尾平野に送って、西軍の襲来に備えただけであった。これは上杉景勝の関東侵攻を恐れて動けなかったためであると言われている。政宗が大局的な見地から関東侵攻を決断していれば、西軍との挟撃にあった家康は二正面作戦を強いられることになる。露仏同盟の挟撃によってドイツ帝国が敗れたように、地政学的に家康は不利な状況に追い込まれる。野戦の得意な家康は局地的な勝利を手にすることはできるかもしれないが、いずれ豊臣政権による公式の徳川征伐が始まると、家康に従っていた東軍諸将は豊臣政権側に寝返っていくことになるだろう。

家康の失脚によって、政宗は東国において最大の勢力を誇るようになる。西国の毛利家と東国の伊達家が勢力を拡大し、豊臣政権は名ばかりとなり、伊達家と毛利家が実権を握るようになる。地理的に西国は分権的、東国は集権的な政治体制となりやすい。日本最大の面積を誇る関東平野は東国の中心であり続け、関東平野を押さえた勢力が東国を掌握する。実際に東国の鎌倉幕府や江戸幕府が強い権力を維持し続けたのに対して、西国の室町幕府は守護大名を掌握できずに衰退していった。政宗が東国に集権的な体制を築き上げれば、その若さゆえに天下を取る可能性は十分にある。恵まれた環境を活かすことができずに政宗が仙台藩主で終わってしまったのは、生まれた時期が悪かったからではなく、ひとえに政宗が戦略を誤ったことによるものである。

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